【モンテギア骨折】Giovanni Battista Monteggia の原著論文を見た

モンテギアさんの画像

いかがお過ごしでしょうか、外傷柔整師ほねゆきです。

毎朝、「寒すぎるな」…と思いながら玄関のドアを開ける日々が続いております。それもそのはず、なんともう12月に入ったのです。

いつでも読めるブログで季節のことを書くのはいけないと思いつつ、つい書いてしまうくらいには寒い。

寒さに弱いほねゆきは冬があまり好きではありませんが、隠れ家で暖炉を焚いて読書したり何か創作をするのはとても好きです。

さて、今回は皆さん大好きな『原著論文を見たシリーズ』です。

教科書や書籍には冠名骨折や冠名分類がたくさん出てきます。

しかし、教科書の多くで古典的な論文や発表に関して、その原著(発表されたもののオリジナル)が載ることはありません。

なので、ひねくれているほねゆきは「これ、本当なの?」と思ってしまうのです。

そこで、教員になった時くらいから、国立国会図書館に通ったり海外の先生に頼んだりしてコツコツと本物の情報を集めてきたのです。

なので授業では、「教科書にはこうやって書いてあるんだけどね…」といった話ができたのです。

まぁ、一部の生徒しか面白そうに聞かないんですが….(u_u)

では、一部の柔整マニアのためにブログ書いていきましょう!!

Giovanni Battista Monteggiaさんとは

モンテギアさんの肖像画。wikiより引用。

Giovanni Battista Monteggia ヨハネ・バプティスト・モンテギア(1762年-1815年)は、イタリアのラヴェーノ・モンベッロというヴァレーゼ州にある町の生まれです。

ラヴェーノの街並みです。綺麗。wikiより引用。

このモンテギアさんが生きた時代は日本で言うと江戸時代で、明和(1764年-1772年)や安永(1772年-1781年)にあたり、ちょうど杉田玄白が『解体新書』(ターヘルアナトミアの和訳書,明和8年)を炭で書いて、当時の接骨界隈が「からだの中って五臓六腑じゃねえんだ!」とバイブス上がってた時代です。

モンテギアさんは遺体安置所のような場所で解剖学を学び、外科医として性病の研究や後学に向けて教育活動にも熱心だったといいます。

家族もいたそうですが、仕事に夢中で家庭にはあまり時間を作れなかったと言います。そういうのは現代と同じですね。

モンテギアさん家。wikiより引用。

そんな人が発表したのが、モンテギア骨折なんです。

ですが、もちろんモンテギアさんが自分で「これをMonteggia骨折と言うことにする!」といったわけではありません。

では、実際の発表を…の前に、ここで一度柔整の教科書を復習しましょう。

柔道整復学理論編を振り返る

皆さんもモンテギア骨折が教科書の何ページだったかは当然覚えていますよね!

私は柔整学の授業をするので当然覚えています。295ページ〜です。教科書はもはや目を瞑ってもひらけます(笑)

では、教科書にはなんと書いてあったか振り返りましょう。

柔道整復学・理論編 改第6版 南江堂 p296より引用

こんな感じで、モンテギア骨折には伸展型と屈曲型があって、伸展型の方が発生頻度は高く、伸展型の整復は極めて難しいよと書いてありましたね。

柔整師なら国試に必ず出るので、覚えているはずです。d( ̄  ̄)

前の教科書には、「橈骨頭の脱臼を見逃さないように」とも書いてあった気がします。

もちろん、モンテギアさんのことは何も書かれていません。(笑)

ISTITUZIONI CHIRURGICHE (外科の教科書)

モンテギアさんは教科書のような書籍を出版しています。

今回はそれを抜粋してご紹介します!

当時、多くの学生がそれを読んで勉強したと言われています。

Instituzioni Chirurgiches (外科の教科書)というタイトルで、1814年に書かれた書物です。

1814年というと、杉田玄白は77歳。実は当時の平均寿命よりもはるかに長い81歳まで生きているそうで、いいものを食べていたんでしょうか。

イタリア語で書かれています。

「ISTITUZIONI CHIRURGICHE」DI G. B. MONTEGGIA
「外科の教科書」ヨハネ・バプティスト・モンテギア 著

PROFESSORE DI CHIRURGIA NELLE SCUOLE DELLO SPEDALE MACGIORE DI MILANO: CHIRURGO OSTETRICIO NELLO SPEDALE DI S. CATTERINA:SOCIO DEL COLLEGIO MEDICO, E CHIRURGICO DI VENEZIA; DELL’ ACCADEMIA DI MANTOVA, E DELLA (SOCIETA’ D’EMULAZIONE DI GENOVA.
イタリア,ミラノ・マッジョーレ病院外科教授:産科医、ベネチア医科外科大学、マントヴァ・アカデミー、ジェノヴァ・エミュレーション協会所属

PARTE PRIMA.
第1章

この書籍の1ページ目は以下のような書き出しです。

イタリア語ですが、頑張って翻訳を書きます。ほねゆきの和訳・異約なので、少々違う部分もありますが、なんとなくで理解してください。

イタリア語ができる方はそのまま読んでください。笑

1ページ目。イタリア語です。。

La cattadra di Chirurgia nello Spedal maggiore di Milano, a cui io era giù stato destinato. ma senza effetto, alcuni anni prima, non venne rimessa in attivita che nel 1800.
ミラノの大病院の外科のカリキュラムは、その数年前に私が作成を命じられていたが、1800年になってから本格始動した。

Nell’ assumere allora questa scuola stetti molto in pensiero sulla scelta del testo, di cui avessi o scroir-mi nelle mie lezioni, e finalmente dopo diverse considerazioni presi il partito di compormene uno proprio, e andai studiandomi di scriverlo quasi di meno in mano che mi accadeva di leggerlo nella Scuola;
この学校に入るに当たって、授業に使うテキストに何を使うか迷ったが、結局、自分で教科書を作ることにして、得た知識をここに全て書き留めた。

sicchè alla fine dello scorso anno scolastico del 1801 al 1802 mi trovai nelle mani un abbozzo di Chirurgiche Istituzioni, troppo pur altro lontane da quel qualunque sirsi grado di maturità, che avrei potuto dar loro in uno spazio di tempo più ragionevole per una si vasta composizione.
1801年から1802年に、手元に外科の教科書の草案が完成したが、もっと早くにできたかもしれない。

Daltra parte ho potuto convincermi, che il metodo di leggere e spiegare gli scritti propri, senzr che gli Scolari abbiano un testo corrispondente nelle lor mani, porge una istruzione troppo fugace, e che va mezso perduta trattandosi di giovani principianti, tra i quali non più trocarsi quella parte di udienzio più matura, siccome accade più facilmente nella grandi Universito, dove molti editori più istrutti sanno coglier di volo, per cost dire, gl’insegnamenti del.
私は、生徒が教科書を手にすることなく、私が話したものを生徒が自分で全て書き留めるという方法は、生徒らに不利ではないかと考えた。大きな大学では博識な先生が教科書を用意しているので、それより良い学習となる。

Prutessore, e velocemente notandoli servono voi a dito fundere co’ loro scritti, a rendere permanente l’istruzione verbale della Scuola, il che scema gl’ inconvenienti della lezione manoscritta, che a lungo pard arricano quasi a bilanciare quelli della scolastica dettatura, qual ne’ passati tempi si praticava.
板書してそれを書き写すというのは、非常に昔から不便だった。

Nella sperienza pertanto che in poco più di due anni ebbi luogo di fare, mi vidi ridotto alla spiace-cole alternativo o di vedere sparse con poco frutto le mie fatiche.
そうやって私の2年間の講義が無駄になるのが悲しく、この書籍を作りました。

といったように、モンテギアさんがこの教科書を作った経緯から始まっています。

日本の教科書にも「はじめに」とか「謝辞」とか書きますが、そういった文章から始まるようです。

モンテギア骨折についての記述

では、早速モンテギア骨折について書いてあるであろう箇所を見ていきましょう。

ブログを書く
ほねゆき

えーっと、どこに書いてあるんだ?まぁ最初から解読していくか。

この辺かな…「歯は折れると多量な出血が生じ、」いや、違うな。

骨折についてどこに書いてあるんだ?図解とかあればいいけど、全ページ(300ページくらい)にわたって全部文字だから…

そして、ほねゆきは寝る間を惜しんで読み込み、やっと見つけました。

では、見ていきましょう。

該当箇所のみ抜粋しました。

Temo che i casi precedenti siano pochi, ma mi dispiace sentire il caso di una giovane ragazza che mi è sembrato abbia subito una frattura del cubito nel terzo superiore a causa di una caduta.
ある少女が転倒して尺骨の中近位3分の1境界部を骨折した症例で失敗を経験して、私はいたたまれない気持ちになった。

In capo ad un mese di fasciatura, o fosse che qualche strepito dell’osso slogato abbia me pure ingannato, comechè già fatto accorto di questo equivoco, o che realmente vi fosse stata la frattura del cubito colla lussazione del raggio;
その少女の骨折で1ヶ月間の固定が終了したあとに、私は自分の過ちに気づいた。尺骨の骨折に伴って、橈骨頭の脱臼があったのだ。

come in altro caso rilevai senz’ alcuna dubbiezza; il ‘fatto è che al fine d’un mese, s i a sciato il braccio e dissipata ogni gonfiezza, che però nella sola lussazione del raggio suol esser poca, trovai che nello stendere l’antibraccio saltava fuori a fare una forte e deforme prominenza l a testa del raggio sulla parte anteriore dell’ articolazione dell’ antibraccio,
腫れはほとんどなかったが、肘を伸展すると橈骨頭が飛び出して、肘前方に大きな膨隆が浮かび上がった。

mostrando in modo troppo visibile e manifesto, che questa era una vera lus- sazione anteriore; la quale poi compressa rientrava a posto, e abbandonata a sè, risortiva, specialmente nelo stendere l’antibraccio. Applicai delle com- presse ed una nuova fasciatura per contenerla, ma non volle più starvi. Spiacemi però di non aver in.
肘を屈曲すると橈骨頭は元の位置に戻り、しばらくするとまた隆起し、次第に肘を伸展位にしている時間が長くなった。湿布を貼ったり、絆創膏を貼ったりし橈骨頭を押し込んだが、何も解決しなかった。これが私の失敗した症例である。

なんと、読んでわかったかと思いますが、モンテギアさんはあくまでも自身が経験したことを書いているだけだったんですね!

決して症例の詳細を書いているわけではないんです。

現代でモンテギア骨折として認識されていることと共通して出てくるワードとしては、「尺骨の中近位3分の1境界部を骨折」、「橈骨頭の脱臼」くらいです。

あくまでも、どんな折れ方とか、どっちに脱臼するとかは全く言及していません!

ただ、モンテギアさんが初めてしっかりと文章にして残したことで、のちに誰かがこれを「モンテギア骨折と言います」と言うきっかけになったのでしょう。

何事も初めて成した人は偉大ですね。

誰が名付けた「モンテギア骨折」

そんなわけでモンテギア骨折の起源に迫ったわけですが、皆さんは満足しましたか?

私は当然….満足しません!!!

なぜなら、モンテギア骨折をしっかりと定義したのは誰か気になるからです。

なので、ほねゆきはあらゆる手段を駆使して調べ上げました。

Perrin J. Les fractures du cubitus accompagnees de luxation de l’extremite superieur du radius. In: Perrin J, editor. These de Paris. G Steinheil: Paris, France; 1909.
『橈骨頭の脱臼を伴う尺骨骨折』 J・ペリン,1909年

調べたところ、上記の『These de Paris.』という書物に「fractures du cubitus accompagnees de luxation de l’extremite superieur du radius」という発表があり、そこで「橈骨頭の脱臼を伴う尺骨骨折をモンテギア骨折と言う」と書いてあるそうです。

残念ながら、上記論文は手に入りませんでした。

モンテギアさんが1814年に文章に残してから95年後にようやく「モンテギア骨折」と言う単語が生まれたのですね。

次に気になるのは

モンテギア骨折といえば、bado分類ですよね。

そこに、柔整の教科書に書いてあるような、伸展型と屈曲型とかが絡んでくるのでしょうか?

それについては、また次の記事で。お楽しみに!

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